映画を極めろ一直線女子 無職勇者の生涯破天荒監督 傑作納骨映画の奇々怪々真実を公開いたしました。
傑作納骨映画と無職勇者の生涯破天荒監督と信用金庫の小原鐵五郎とダグラス・フェアバンクス・ジュニアのつながり、そこになぜ三田佳子なのか、
今回は無職勇者 生涯破天荒監督 傑作納骨映画 奇々怪々真実 別府のお父さんに逢ふて来ます 寂光 納骨の日 小原鐵五郎 小原哲学 信用金庫 東京国立近代美術館フィルムセンター 森紅 バルセロナの短編映画祭 私の子供 個人映画特集:2 森紅・服部茂作品集 ドキュメンタリー映画 発掘された映画たち2018 Cinema: Lost and Found 2018 コルシカ兄弟 ダグラス・フェアバンクス ダグラス・フェアバンクス・ジュニア コルシカ兄弟(1941) コルシカ兄弟(1915) フランス スカグル 三田佳子 別れぬ理由 津川雅彦 Wの悲劇 高倉健 降旗康男 渡辺淳一 いのち NHK 大河ドラマ 最高視聴率36パーセント 極道の妻たち 三代目姐などが含まれています。
『納骨の日』のお辞儀の意味
そして印象残るもう一つ(上記リンク=公開いたしました部分からの流れです)の要素がお辞儀の部分です。多くの人々がカメラの奥(出入りの門)から出現し、カメラに迫ってきて、森紅にお辞儀してカメラの手前に姿を消していくのです。この流れ作業とも考えられる描写は落ち着きや心地良ささえ感じられるように編集されて、作品化されており、不思議な新鮮がありました。
例・お辞儀の写真
このお辞儀で気ににかかることがあります。それは森紅が政治家の息子だと知っていたからお辞儀したのか、カメラで撮影していたからお辞儀をしたのか、ここの部分は正確には不明です。個人的には後者のカメラで撮影していたからお辞儀した、カメラで撮影していたからお辞儀した+自分から挨拶して、それに答える形で登場する人々がお辞儀で返したということだと考えられます。それに笑顔や笑い顔が伴う場合があり、撮影されたその人流な笑顔が連続で続いていくように編集や演出されているように感じられました。
1930年代の当時の日本映画はニュースや特別な行事を映画館で上映する概念*が定着していましたが、個人が庶民を撮影して残すという概念は現在残って作品として存在している面ではあまり多くはありません。個人が庶民を撮影することは珍しいことだったと考えられます。現在の個人だと盗撮容疑に問われてしまいますが、この時代はまだ慣用でした。今以上に庶民を撮影して個人が残すことができたのです。
*ニュースや特別な行事を映画館で上映する概念=現在はニュースや特別な行事を映画で上映する概念はほとんどありませんが、日本映画が作られた1900年代の前半から多く存在しています。この1930年初頭の時点で30年ほどの歴史が存在していました。
日本ニュース映画史―開戦前夜から終戦直後まで (1977年)
ただのモノクロ映像と侮るなかれ、実に色々な要素が隠されています。
日本映画の初の撮影者(日本映画の初の撮影技師)として知られる浅野四郎(1877年~1955年)という人物がいますが、彼は1890年代の後半から記録の撮影を行っています。『日本橋の鉄道馬車』は記録映画であり、撮影のみの最初の映画ともいわれています。ですが、監督や演出としての作家性はほとんどありません。その後、にとに日活の一部となる吉沢商店や大手の新聞社がニュースや特別な行事を多くの観客に伝えるための映画として上映していきました。
森紅による『納骨の日』というタイトルに逆らう形の印象の残る晴れやかな映画でした。これは記録するのみのニュースや特別な行事を映画ではなく、明らかな作家性が伴っている映画だと感じることができました。
さらに映画内容も当時のトップレベルの評価でき、1930年代初頭のアマチュア映画監督が製作していたことは驚きです。
戦前の牧野省三や吉野二郎、伊藤大輔、マキノ雅弘、稲垣浩、小津安二郎、成瀬巳喜男、溝口健二、内田吐夢など数多くの巨匠たちの数多く名作が失われている状況ですが、戦前の日本映画は考えられている以上に発展していたのではないかと考えられます。森紅の存在もその理由の一つにはなるのではないでしょうか。
満州の日本人たちを記録したニュース映画たち
上記記事のニュースや特別な行事を映画のつながりで、ちょっと満州に関しても取り上げます。現在の中国の一部とロシアの一部は満州と呼ばれ、1930年代から1945年付近を中心に一時的に日本国の一部でした。そこで多くの映画関係者が生まれています。
満州生まれの映画関係者は大まかに東映でデビューして1960年代から1970年代前半にかけて活躍した梅宮辰夫、現在は年配タレントですが、子役スター時代に東映や大映映画に出演した松島トモ子、『天才バカボン』 (1971、最初のアニメ化)や『あらいぐまラスカル』 (1977) などで知られるアニメ監督の名匠の斎藤博、テレビアニメの代表作の一つ「楽しいムーミン一家」の映画版『楽しいムーミン一家 ムーミン谷の彗星』 (1992)も手掛けています。ですが映画は少なめです。『天才バカボン』などの原作者でもある赤塚不二夫も満州です。
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満州生まれの斎藤博の映画監督作の代表作の一つといえそうです。
ジェームス三木も満州生まれで、満州生まれの映画関係者の部分を持ち、彼は映画は30作ほど手掛けていますが、代表作『赤い鳥逃げた?』藤田敏八と共同脚本、山口百恵、三浦友和コンビの『ふりむけば愛』の2作ほどで、映画ではテレビと比べると苦戦しました。全体的にはジェームス三木はテレビドラマで活躍した脚本家だからです。
戦後の日本映画のザ・ヒロイン女優といえる浅丘ルリ子も満州、彼女は石原裕次郎や小林旭を主にヒロインのみの数は通算93作、一般映画の戦後最多の大記録を持ちますが、主演数は30作ほどであり、上位には含まれません。部分的にはすごいわけですが、裏を返すと微妙な部分があり、実積の落差が激しいです。主演とヒロイン数を足すヒロイン以上は歌手&映画スターで活躍した美空ひばりに次ぐ戦後2位です。
ヒロインのみの数=そのままヒロインのみの映画数。男優の相手役の相当するのみであり、ダブル主演はもちろん、単独主演の場合も含まない考え方。この場合はヒロインで主演だと考える場合は含まない。
また、東宝監督の福田純や東映から生まれた知名度の高い脇役俳優の川谷拓三、テレビと映画のヒットでも知られる「宇宙戦艦ヤマト」シリーズなどの数多くの代表作で知られる名声優の富山敬も満州です。こうした多くの日本人たちを生んだ満州の情報が満州ニュース映画から垣間見れます。
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