真の国民的映画スターと松方弘樹の腐れ縁の数々と題して進行していきます。
映画道を極める一直線女子 松方弘樹と国民的映画スター・片岡千恵蔵の共演歴 その絶大な影響力の解明を更新しました。
<この人と松方弘樹を関連付けずにはいられなかった現実>
松方弘樹も上記の人物の影響を多大に受けていた事実が存在しているため、取り上げることが必然たと考えて名前を出しました。まずこの事実がある時点で取り上げないことがおかしいのではないでしょうか。
リンクから見ていただきますと最低でもなんとなくは分かるようには工夫しましたが、現実に16役で19度という数字は大きなものだと考えています。
<松方弘樹の生まれながらの宿命は父・近衛十四郎だけではなかった>
松方弘樹は主演映画が50作ほどの映画スター・近衛十四郎の子供の時点でいずれは、時代劇映画や時代劇ドラマへの道は運命だったと考えていますが、また、それ以上に上記のリンク先から片岡千恵蔵の存在も大きなものだったことが何となくでもわかっていただければ幸いです。
<松方弘樹がデビューした日本映画の黄金期の形成にもっとも貢献した東映という映画会社>
全盛期の東映映画は東横映画から社名を変更し再スタートした1951年の創立時から東宝を上回る3位と大好調でしたが、東映の直営の映画館はまだまだ少ない状況でした。
その数年で着実にファンを増やしていき、片岡千恵蔵も戦前からの時代劇ファンと戦後の現代劇などの新しいファン層の開拓の成功、若手スター・中村錦之助(のちの萬屋錦之介)のブームなども重なって、東映の直営館(東映の映画を専門的に公開する映画館)はうなぎ上りに日本中へ急増させていきました。
その結果、1950年代の中盤には他の大手5社(日活、松竹、東宝、大映、新東宝)と直接に対抗できる直営館数や勢いを手に入れて、東映は1956年に松竹を上回って、創立からたった5年という驚愕のスピードで大手6社の堂々1位に輝きました。
1960年代の中盤や後半に東宝へ数度の首位は譲るものの、全般的には黄金期同様に観客動員は東映が中心でした。
1960年代の後半には黄金期から邦画の観客動員は数分の一にまで落ち込みましたが、その順位は継続していきました。
1970年代に入ると東宝との激戦はさらに過熱化していきました。その後、80年代に入ると映画スターをすべて失った東映の客足はさらに落ちていきました。現代は東宝の事実上の独占状態と化した悪循環な日本映画の市場が継続しています。
1950年代の時代劇時代の流れが東映の長期間の全般1位を作り上げたのが事実です。
松方弘樹は日本映画で最後の10億人のときの1960年にデビューし、最後の8億人となった1961年から時代劇路線へ一時的な転向を余儀なくされました。
表でも書いていますが、文豪・大仏次郎の原作の大オールスター映画『赤穂浪士(1961)』で片岡千恵蔵(大石蔵之助役)の息子の大役・大石主税を演じ、片岡千恵蔵からある程度の素質や将来性を認められていたのかも知れません。
「今はまだまだ雰囲気だけが先行していてまだまだでも、のちには活躍する存在になりえると・・・」片岡千恵蔵らや東映の上層部の人間たちは感じていたことでしょう。
houti 142) 邦画チラシ[剣聖 近衛十四郎 ]映画祭より 二つ折り型
- 作者: 日本邦画映画チラシ
- 出版社/メーカー: 東宝 東映 松竹他
- 発売日: 2015/04/01
- メディア: その他
- この商品を含むブログを見る
今も一部に根強いファンも存在している松方弘樹の父・近衛十四郎の貴重なチラシです。映画時代は大映の前身の一つの有名なB級映画会社・大都映画、松竹、東映などで主演数が50作ほどであり、映画時代の通産では脇役が中心で活躍した俳優でした。
主演50作は日本映画歴代100位に近い数字です。松方弘樹も映画は全般的に助演が多いので、父・近衛十四郎と似た部分がある映画の活動でした。
前回↓ ↓
東映の系図の宿命と女優の苦しみを乗り越えて - 映画道を極める一直線女子の裏話
ドラマの裏(映画のことも多く登場)↓ ↓
沢島忠「”映画界の天皇”とも言われていた」~歴代ヒットメーカーがドラマの監督をするの裏通り - ドラのいつどこでも ドラマ思想展開の裏通り