映画歴代撮影者師弟傳 谷本精史と宮川一夫(Kazuo Miyakaw)
映画を極めろ一直線女子 【映画神業】西悟郎と木下忠司の映画大音楽家同士が一つになった奇蹟を公開いたしました。その裏パートです。
上記リンクの流れでされに製作サイドに足を踏み入れてみます。
日本を代表する大撮影者の宮川一夫(Kazuo Miyakaw)の師匠 谷本精史の実像に迫る
1934年の日活映画の忠臣蔵題材の超大型時代劇映画『忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇』は、それまでの日本映画の常識を覆す大スケールで製作されました。
撮影は酒井宏と谷本精史、酒井宏は主演100作を越す日活のベテランスター山本嘉一が主演した大巨編&オールスター1931『殉教血史 日本二十六聖人』、日活でそこそこの成果を残したスター沢田清の現代劇1932『田吾作ホームラン』、吉川英治の代表作の一つで時代劇1932『隠密七生記 静中動篇』、『隠密七生記 動中静篇』、伊藤大輔と大河内傳次郎のコンビ1933『丹下左膳 第一篇』、1934『丹下左膳 剣戟の巻』などを残し,その後も期待されましたが、撮影数は25作ほどに留まりました。
戦前を代表する名撮影者の谷本精史とその主な代表作映画群たち
谷本精史は日活や千恵プロの撮影者であり、大河内傳次郎の『沓掛時次郎(1929)』、オールスター2部作の『大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻』、『大菩薩峠 鈴鹿山の巻 壬生島原の巻』、片岡千恵蔵は1929~1930『愛染地獄 第一篇』~『愛染地獄 第三篇 』 、万作×千恵蔵の1932『研辰の討たれ』、同『元禄檜笠』も撮影、主演=千恵蔵×池田富保の唯一のオールスター『王政復古 担龍篇 双虎篇』は豪華、桂小五郎=片岡千恵蔵、坂本龍馬=嵐寛寿郎、近藤勇=阪東妻三郎、西郷吉之助 =小杉勇の4主要キャスト、
*今東光の時代小説「愛染地獄」、映画は片岡千恵蔵は1929~1930『愛染地獄 第一篇』~『愛染地獄 第三篇 』で知られています。
*片岡千恵蔵は「万花地獄シリーズ」に次で、地獄タイトル「愛染地獄シリーズ」に主演、戦後も「地獄シリーズ」などで縁があります。個人的には地獄シリーズのタイトルは大プロデュ-サーの玉木潤一郎が戦前の片岡千恵蔵の地獄題名の代表作映画たちに目を付けて、そのヒットにあやかって戦後も登用したのではないかと可能性を指摘しています。
*ココに数日以内にリンク予定があります。
谷本精史は戦前のオールスター時代劇映画の撮影者
谷本精史はオールスター時代劇映画の撮影者としても知られています。それは多くの代表作からも分かります。当時の日活のベテランスターの山本嘉一が徳川家康で主演した144分(当時としては大長編の2時間22分)の超大作オールスター1929『修羅城 水星篇 火星篇』、地味目なオールスター『水戸黄門(1932)』、別題『異色 水戸黄門』、さらに水戸光圀=山本嘉一、大ヒットした1934年の日活映画の忠臣蔵題材の超大型時代劇映画『忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇』、渥美格之進=片岡千恵蔵、佐々木助三郎=阪東妻三郎のトリプル主演オールスター2部作の1937『水戸黄門廻国記』、1938『続水戸黄門廻国記』 などがヒット、
さらに谷本精史は千恵蔵×阪妻の前後主演の1938年の171分の大超大作&オールスター&忠臣蔵の大ヒット&名作『忠臣蔵 天の卷 地の卷』の後編『忠臣蔵 地の巻』(監督は池田富保)の撮影、戦前上位のオールスター映画の名撮影者としても活躍しました。
ub28034忠臣蔵 天の巻地の巻ポスター 片岡千恵蔵 嵐寛寿郎 阪東妻三郎 月形龍之介 尾上菊太郎
・ 『忠臣蔵 天の卷 地の卷』が戦後に再上映されたときにポスター
谷本精史の最後は謎の消息不明状態
谷本精史は1939年に丸根賛太郎のデビュー作で、片岡千恵蔵の主演『春秋一刀流』の撮影を担当した後、1940年に満映こと満州映画協会に移籍、満州で中国人の監督や俳優の出演映画や現地の日本人監督の映画を10作ほど撮影し、1942年を最後に亡くなった可能性がある人物です。
その後は撮影や映画履歴が突如として途絶え、その後、日本に戻り映画撮影者を辞めて暮らした可能性もありますが、1942年は戦争が激化した時期であり、亡くなったが高いと考えられますが、実のところは謎の行方不明のままです。師弟である宮川一夫は彼のその後も知っていたことでしょう。
谷本精史は日活の戦前の最大黄金期を支え、オールスター時代劇映画の撮影者を多く手掛け、日本を代表する大撮影者の宮川一夫の師匠としても知られています。
映画歴代撮影者師弟関係傳 谷本精史と宮川一夫
ちなみに谷本精史が宮川一夫を生んだのは明らかな必然といえるでしょう。互いにそれぞれの時代を代表する映画撮影者でした。
・谷本精史は1927~1942の80作強の映画撮影歴
・宮川一夫は1930~1990の130作強の映画撮影歴
ちなみに宮川一夫は生涯、関与順・マキノ正博(マキノ雅弘)、松田定次、稲垣浩、伊藤大輔、森一生、溝口健二、黒澤明、吉村公三郎、市川崑、小津安二郎の主に10名の映画巨匠の撮影を担当、娯楽や前衛作、アート方向、幅の広い作風など、それぞれは自分のやり方を探求した監督たちです。
さらに巨匠か微妙ですが、晩年の1970~1980年代は主は名匠の篠田正浩とコンビを組み、いくつかの代表作も残しました。
晩年期の1971~1989年は名匠の篠田正浩とコンビを組み、1930年代から1980年代にかけて年代ごとに幅広い代表作を残しました。あまり深く取り上げる必要がないほど有名です。
篠田正浩と篠田正浩のコンビの有名作の一つ『瀬戸内少年野球団』(1984)も含む。
海外でもKazuo Miyakawとして知られる、宮川一夫の生前のインタビューの中で録画が残っていますが、谷本精史は自分の師匠だと話しています。